私のPC史
最終更新日:2005/1/23
更新凍結日:2007/6/4

ここでは私とPCとの始めての出会い(?)から現在に至るまでを綴っていきます。
まあ、2001年9月以降は自宅サーバを公開し、「約定期日記」(当初は「不定期日記」)を書いているので控えめになるかもしれませんが〜・・。

2007/6/4をもって、このページの更新を一旦凍結します。
明らかなミスなどが発見されれば修正されるかもしれませんが、基本的に一切更新しません。
10年後(2017?)ぐらいに約定期日記を見直して、メジャーな出来事だけ抜粋して更新するかもしれません。

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年月日 私とPCについての歴史 備考
1993年7月19日
8歳(小学2年生)
スーパーファミコン(Nintendo SFC)を欲しいと親にねだったらなぜかパソコンを買ってくれた。当時まだパソコンは家庭に一般的ではなく、しかも非常に高価であった。

●NEC PC-9801FS(3.5インチフロッピードライブ2台HDDなしモデル)
(現在は「初代」と呼ばれている。由来は1台目のPCだから。)
値段  約\280,000

我が家に初めてパソコンが来たのであった。そしてこれが私の1台目のパソコンとなる。

当時すでにWindows3.1が搭載されたモデルが
販売されており、なぜこんな型落ちを買ったのだろうとずいぶん考えてみたが、当時は時代標準のPCを買うのにも40〜60万円(もちろんデスクトップPC)はかかったはずである。そんな大金はなかったので予算30万円で買えないか?とか店員に相談したところこの型落ちを薦められたのだろう。
1998年1月
12歳(小学6年生)
母の知り合いから5万円でWin3.1が動くPCを譲ってもらう。5万円は年玉から。このときやっとGUIでPCを操作できるようになった(それまではDOSかROM BASICだったからね)。

●NEC PC-9821Ce2(3.5インチフロッピードライブ1台HDD170MBモデル)
(現在は「Canboo」と呼ばれている。由来はCanbee(9821Ce3)に近いけど違うから)
値段  約\50,000

このころはまだNEC天下だったからねぇ・・。それにしてもHDDはもうちょっと欲しかったかも。これじゃWin98入らないよ・・(もっとも、数値演算コプロセッサがないためHDD、メモリがあってもWin98は入らないのだが)
1998年〜1999年春頃のいつか PS(プレステ)かSS(サターン)欲しいなぁ〜と呟いていたら、なんと親が買ってくれるという。それ以前にN64(ろくよん)は買っていたがいまいちだった(マリオ64も飽きていたし)。どちらにするか迷ったが、決め手はFF7ということでPSに決まった(今思えばこのときSSにしていたら今の私はいないだろう) そして結局SSは健闘むなしくさびれ、DCすら生産中止になってしまった。
同上 近くのニノミヤでPS用240ブロックメモリカード(Karat製)を購入。思えばこれが運命の分かれ道か。普通のメモリカードを買っていたら現在の私はいないはずだ・・。 それにしても、今思えば偶然Karat製だったというのは奇跡かもしれない。もし他社製のメモリカードだったら・・・。
同上 メモリカードについていた広告の中に「ProActionReplay」というものを発見。いわゆるチート用のPS周辺機器だ。興味がわいたので早速注文。 この時点で普通の人じゃないかも・・。
同上 「ProActionReplay」についていた広告で「ProCommsLink」というものを発見。なんとPCを使ってチートコードをサーチできるという代物だ。これはすごいと思って動作環境を見るとWindows95以上とあった。そこで大阪・日本橋を1時間以上歩き続けてなんとかNEC版Windows95を手に入れることに成功。もうこのときはWindows98に切り替わりつつあったので95のパッケージは姿を消し始めていた。 普通の人なら絶対こんなもの(ProCommsLink)買わないって!
1999年4月? さーて、ProCommsLinkを取り付けるか・・・・と「Canboo」の外蓋を外し、ISAカード(ProCommsLinkはISAだった)をコネクタに近づける。しかし・・・合わない。どうしても挿さらない。どうしてだ〜!!!ん?説明書をよく読む。

「動作環境:Windows95以上を搭載したIBM PC/AT互換機」

なにーっ!!IBM PC/AT互換機だってー!!(そう、このときの私はまだパソコンのことをよく知らず、IBM PC/AT互換機とはIBM社のPCのみだと思っていたのだ)うちのPCはNECじゃないか!これじゃ動かない!!どうしよう〜〜〜!!!!!!

大阪でWin95を探すときにProCommsLinkの説明書を店員に見せていればこの痛恨のミス(意味のないWindows95購入)は起きなかったかもしれない。ああ、なんのために1時間歩いたんだ・・・。それにしてもチートコードがサーチできるという興奮で動作環境を正確に見ていなかったとはなんともうっかりだったんだなぁ〜。まあ、そのおかげで今の私がいるんだが。
1999年4月18日
13歳(中学2年生)
ということで、買ってしまいました。IBMのマシンを。
上でも書いてるが、今でこそ「IBM PC/AT互換機」ってのは俗に言うDOS/V機、Windows機のことだと知っているが、当時は「IBMが作っている、国際基準PC/ATに準拠したマシン」とでも思っていたのかはよく覚えていないのだが、まあとにかく、IBMのマシンを買ったのだった。

●IBM Aptiva E-series 2156-143(HDD4.3G、PCIモデム搭載、Win98プリインストールモデル)
(現在では「Chie」と呼んでいる(妹の名前)が、その前は「Aptiva」とか「2156-143」とかそっけない名前で呼んでいた。まあ、名前を付け出したのは自作機作り始めてから?ぐらいだし・・・)
値段  約\140,000(その他周辺機器含めたら軽く30万はつぎ込んだかと・・)

ついに念願かなって手に入ったPC/AT互換機(ATパソコン)。ここから運命の歯車は動き出す・・・。
ちなみに購入までの経緯をフローチャート化(2005/1/23日の自作PC日記)してみました。
1999年4月、購入から
1週間も経たないころ
 当時、我が家にインターネット環境などあるはずもなく、インターネットは高校に入学してからということになっていた。しかし、モジュラージャックだけはすでに私の部屋に設置されていた(後から工事をすると面倒だから家を建てたときにつけた。ちなみに1995年に我が家は新築になっている。
 しかし、モデム内蔵、モジュラーケーブルもある、となればやってみたいのが人間ってもんだ(?)。親に内緒で接続し、デスクトップのオンライン申し込みアイコン(IBMの。今となってはメーカー戦略にまんまとはまってしまったと後悔している)をダブルクリック。そして、申し込みが進んでいくと、支払い方法の画面になった(はず)。そこで私はなんと
親のクレジットカード番号を盗んで入力。無事申し込みを済ませたのだった(今から思えば下手したら事件に発展していた可能性もある)。
メーカー戦略にはまったとは、もっとアクセスポイントが近くにあったり(IBM(現在はAT&T)は大阪にしかなかった。私の住んでいるのは和歌山県伊都郡九度山町)、料金が安かったりするプロバイダがあるかもしれないのに、デスクトップ上で一番目立っていたIBMに申し込んでしまったことをいう。

ちなみに申し込みの件は、次の月の電話料金請求とクレジットカード会社からの請求であっさりバレたが、「今すぐ解約しろ!」とかは言われなかった(今から思えば不思議かもしれない)。
それから数ヶ月・・ 何を勘違いしたか、私はシェアウェアを片っ端から購入。さらにシェアウェア代金の送金のためだけにニフティサーブ(現@nifty)に加入。おまけに市外局番でインターネットしてるうえにテレホーダイなども加入しておらず、毎月飛んでいく金は相当なものになっていた。さすがにこれには親もだまっておらず(当たり前だ)、再三注意されたのでシェアウェアの無駄遣いはやめたのだが、市外局番インターネットはメールアドレス変更のこともあり結構渋っていた。 このころ購入したシェアウェア料金はおよそ5万円相当。しかし、後にデータをフッとばし(受信したメールもすべて)、すべてパァになってしまった。かの有名な「5万円がパァ」事件である(ちっとも有名じゃないって(^^;)
1999年8月中旬 さすがにずっと市外局番インターネットをするわけにもいかないので(当時はADSLはおろかISDNすら来ていなかった)OCNに変更。アクセスポイントは和歌山県橋本市になり、市内料金でインターネットができるようになった。 現在(2003年9月)、ADSLとなった今でもまだOCNである。思えばもう4年にもなるのかぁ〜・・・
1999年9月上旬 とあるシェアウェア(ダウンロード販売)がほしかったのだが、入手するためにはBIGLOBEの会員になる必要があったのでなった。といってもコンテンツ利用時のみ金のかかる「るんるんコース」とかいうやつだが。 そのシェアウェアもいまではどこかに行ってしまった・・・ちなみにVRML作成ソフトだったと思う。
1999年10月 このころに、何か不具合があったらしくPCをリカバリしている(思いだせん)。このときにシェアウェアのレジストキーを大量に紛失し、約5万円分をパーにした。 現在「Fen」に残っている最古のメールデータは受信が1999年10月22日、送信はちょくちょく不必要なのを消しているため2001年4月17日である。
1999年12月 このころ父がS○TECのパソを購入。 安い裏には罠がある・・・。当時のS○TECは「安かろう、悪かろう」を地で行く企業だったと(今はどうかわかりませんが)・・・。
2000年4月10日 妹のPC(現在ケースのみ残っていて、そのケースは「Sephie」のケースになっている)を購入。その当時ではディスプレイつきで77595円(送料、消費税込み)という破格の安さ。 こちらも、安い裏には・・。でもS○TECよりはケースが汎用的だった分ましでしたけどね(あと、プレーンのWindows98インストールディスクがついていたのも評価に値する)。
2000年7月14日 60万円の教材の勧誘から何とか頭を冷やして逃れたと思ったら、何を思ったかノートパソコンを買っている。もちろん衝動的なものではなく、以前からGateway(今は亡き日本Gateway・・・)のサイトを毎日のように訪れては購入シミュレーションをしまくっていたSolo 9300をついに購入したのだった。

●Gateway Solo 9300(HDD6G Win98プリインストールモデル)
(現在の「Fen」である。ドッグ、いや、マウスイヤーのIT世界において、3年以上メインPCとして動き続けているのはすごいかもしれない?)
値段  約400,000円

しかし、今では徐々に「Naomi」へとメインの座を明け渡しつつある。名目上では「Naomi」がすでにメインマシンなのだが。
2000年12月? このころ父がIBMのノートパソを購入。 Celeron500Mのやつだったのだが、勤めている会社のIT化の流れの中でなぜかPentium1.13Gのやつ(これもIBMの)に化けている(別に盗んできたわけではなく、会社の指示らしい・・?)
  いつ頃だったか、ISDNが導入されている・・・。 もちろんまだフレッツではない。
2001年1月20日ごろ 初の自作PC「Naomi」を作る。作り方は「かんたん図解自作パソコン入門(技術評論社)」を見ながらだったかなぁ〜?まあ、普通自作1台目だったら、店の人にお勧めを聞いたりしながら購入するものだが、何を思ったか私はほとんど(CPU、マザーボード、ケース、電源ユニット(電源ユニットついてないケース買ったもので・・それでも2万円したケースって・・))のパーツをオンラインショッピングで購入(なんかトラブルあったらどうする気だったんだろう・・幸いなかったが)した。

●自作機1台目「Naomi」

手元に残っているレシートではCPU、マザーボードの購入記録しかなく、メモリ、キーボード、マウスは「Aptiva」(妹に譲る前の「Chie」を指すときはこう呼ぶ)のを使ったのだろう(キーボードは現在でも使い続けている)が、CDドライブはどうしたんだろうか・・・ん?そういえばこのころ、妹とPCの中身を入れ替えていたっけ?う〜ん、思いだせん・・・・多分CDドライブも「Aptiva」のやつを使ったんだろうな〜
2001年2月25日 家庭内を無線化しようと無線LANセット(アクセスポイント、NIC(デスクトップPC用)、無線NIC(ノートPC用)、LANケーブル)購入。 このころはまだ現在のような大規模家庭内LANは想定していなかったのでハブやルータは購入せず。店の人が間違えたせいでストレートケーブルを買ってしまい(PCにアクセスポイントを直に接続するときはクロス)、接続できずなかったのでキレて無理やりケーブルを抜いたらツメを折ってしまい使い物にならなくなった(ぉ)。
2001年3月中旬〜下旬 CD-R/RWドライブとメモリをまたもやオンラインショッピングで購入 このドライブはすでに故障して現役引退。
2001年5月上旬
(高校1年生)
無事、志望校に入学でき、数学部(現在は数学・情報部という。名前には「数学」とついているが、実際はパソコン部である。ワープロ検定や情報資格、各種の情報系大会に出たりする)に入部したのだが、普通、学校のPCが制限かかってて使いづらいからって自宅からパソコン持っていくなんてやつはそうそういない。が、私はそういうやつだった。しかし、それを許可してくれた顧問の先生もそうそういないのではと思う。  
2001年7月下旬 「Naomi」のパワーアップと、それによって発生する余剰パーツを使ってもう一台組み上げて学校のPCをパワーアップさせることを決意。で、実行。

●自作機2台目「Naomi2(仮)」
変な名前だが、すでに正式名称として定着しつつある。ゆえに「(仮)」の文字がなくなることはないだろう。

このとき、妹と外見を入れ替えていたマシンを引き上げた。それについてもう少し詳しく書くと、下の行のようになる。
特別行 妹が初のPCを購入していくらかたったころ、外側の入れ替え(といっているが、マザーボードも変わっている。まあ、同じK6-2だからOKだが・・?)をもくろんだ。そして、実行した。おそらく理由はケースがほしかったからだろう(いまでも「Sephie」のケースとして使えるぐらいだから悪いものではない)
  私のPC 妹のPC
交換前 名称:「Aptiva」
ケース:IBM
マザーボード:IBM
CPU:K6-2 333MHz
HDD:Quantum 4.3G
キーボード:IBM
マウス:IBM
名称:「CTO」
ケース:CTO
マザーボード:CTO
CPU:K6-2 500MHz
HDD:Seagate 8G
キーボード:CTO
マウス:CTO
交換後 名称:「Sephie」0th(注2を参照)
ケース:CTO
マザーボード:CTO
CPU:K6-2 333MHz
HDD:Quantum 4.3G
キーボード:IBM
マウス:IBM
名称:「Chie」
ケース:IBM
マザーボード:IBM
CPU:K6-2 450(注を参照)MHz
HDD:Seagate 8G
キーボード:CTO
マウス:CTO
注:名称ってのは現在(2003/9)から考えたりしているので、当時その名で呼んでいたわけではない。また、メーカー名は「そのメーカーのPCについていたやつ」という意味で、そのメーカーが作ったり販売しているという意味ではない。また、冒頭で「同じK6-2だからOKだが・・?」と書いているが、実はマザーボードの制限で450MHz(裏技設定で6倍にしてもこれが限界)までしか出せないのでダウンクロックになってしまっている。
注2:「Sephie」という名前は2001/12に購入したパーツで作り変えたときにつけた名前だが、名前決定はケース準拠というルールから考えるとこの時期のこのマシンは「Sephie」0thってところだろうか?(「」の外にある1stとか2ndってのは、パーツの世代をあらわす)
2001年8月上旬 PCの台数が増えたのでスイッチングハブとNICを買っている。 増えたPCというのは「Sephie」0thのことだろう。
しかし、このスイッチングハブ、9月に入ってすぐに学校に持っていき、10月にまた回収している。
2001年8月下旬 ついにフレッツISDNがきたので申し込み。同時に自宅サーバ公開に向けて動き出す。 まだフレッツになっていない8月中に大量に試験接続しまくった挙句すごい電話代(2万円近く、かつてアナログ時代大阪に市外局番でインターネットしていたころぐらい)が請求されてしまった。
2001年9月1日 自宅サーバが正式公開。当時はまだ「NaomiBrain」。 このころの日記を読んでみると「Naomi2(仮)」のことを「Naomi」2と書いている。まあ、当時は名前の表記が定まってなかったからねぇ・・。でも「Naomi」2じゃ当時の「Naomi」をさすことになってしまうな(2を2ndと解釈すればね)・・・。
  このころから「不定期日記」(現在の「約定期日記」)が始まっているので、ここで書くことは大まかなことになる。  
2001年9月28日 デジカメDC20をオークションで落とす コダックのデジカメである。
2001年10月21日 初級システムアドミニストレータ試験を受けている。経営部分は難しかったが、ハードやソフト面はもともとある知識で何とかなった。 結果は合格だった
2001年12月8日 ●自作機3台目「Sephie」作成 詳しく言うと「Sephie」1stってところか。
2002年4月21日 基本情報技術者試験を受けている。って、これはPC史に関係あることなのか? これも合格している
・・・ あとは「約定期日記」と「自作PC日記」に任せることにする。ようするに面倒になったってわけだ(ぉ)また気が向いたら「Arul」と「Naoko」ぐらいは書くかもしれない。  
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     

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